【制作】『レッド・コメディ~赤姫祀り~』初日観劇Report

人が「芝居」を生み出した理由へと誘うドラマ

 石造りの壁に囲まれ、縦に長い空間を有するシアタートラムは屋内ながら、どこか舞台芸術の大きな源流の一つであるギリシャの野外劇場に通じる空気がある。と、個人的に思っていた。その上空壁面に長型の赤い名入れ提灯がずらり妖しく灯り、舞台中央に組まれた椅子の塊にほのかな赤みを投げかける。脚を絡め合うその様は、この後、舞台上で繰り広げられる人間模様のもつれを象徴するかのようだ。
 劇作家・秋之桜子(俳優名は山像かおり)が、俳優で代表の奥山美代子と制作・渋井千佳子と共に創作拠点とする劇集団・西瓜糖は、日本の歴史上折々にある転換点、その混沌の中で生きる人々の営みを生々しく描く作品群で、2012年の旗揚げ以来、芝居好きを惹きつけてきた。作品ごとに集う手練れの演出家&俳優が紡ぎ上げる、濃密な劇世界は唯一無二のもの。花組芝居座長・加納幸和は、その第7回公演『ご馳走』(2019)と第10回公演『いちご』(2020)の演出を手掛け、そこで築かれた信頼関係から、『レッド・コメディ-赤姫祀り-』は生まれた。
 時は、日中戦争の発端=慮(ろ)溝(こう)橋(きょう)事件が起きた昭和12(1937)年の夏のさなか。そこから少し遡った柊木座での「事件」を機に、東(あずま)新聞社主・田岡の元に、被害者である女形・柊木 葵と付き人の桃田が身を隠している。この3人を軸に、田岡の元恋人である人気作家・手塚とその編集者・西村、手塚の妻・文子、同輩の作家・乾、作家志望の青年・川野とその母らの間にも、蜘蛛の巣のごとき精緻なえにしの糸が張り巡らされていく。
 「事件」以来、狂気にとらわれている葵は自身を姫君と思い込み、田岡や桃田を相手に赤姫の登場する様々な歌舞伎の場面を〝ごっこ〟で演じつつ暮らしている。劇中に織り込まれたその名場面、名台詞の数々は、執筆段階からドラマターグ=文芸担当として秋之に伴走した加納肝いりのもの。赤姫と、それを取り巻く人物たちの情と業とが渦巻く場面が絶妙に切り取られ、今作の本筋や登場人物たちの心情と重ねて挿入されるのだが、一作で十数作分を味わえる、加納と花組芝居にしかできない趣向となっている。
 歌舞伎一座の座内での嫉妬絡みの諍い、男同士の愛と裏切り、母子の近親相関、作家と妻、編集者が公私をないまぜに描く歪な愛憎……。人間が無意識ながら身の内に溜め込み、粘度高く発酵させてしまう感情、それもマイナス方向のアレコレを掘り起こし、舞台上の明るみに思い切りよくさらすのは西瓜糖ならではの作劇で、今作にもその要素はたっぷりと仕込まれている。
 だが、そこに花組芝居の役者連がしっかりと身に着けてきた型や様式、演出を手がける加納の確固たる美意識と客観性が加わることで、デカダンやグロテスクを越えた、これまで他のどこでも観る機会のなかった、リアルを突き抜けて痛快ですらあるグラマラスな劇世界が立ち上がる。
 強大な時代のうねりに、卑近な人間関係に、己の内なる感情に、人は生きている限り翻弄され続ける。けれどその渦中で味わう苦しみも、結局は束の間。生ある限りのことでしかなく、全てはいずれ過ぎ去り留めようもない。にも関わらず人はあらゆる執着を捨てられず、創り、演じ、愛し、憎み、生きる限りもだえ苦しむのだ、いつの時代、どんな国に生まれたとしても。
 その揺るがし難い事実に向き合う助けとするため、人は芝居を生み出したのではなかろうか。その中で、ありとあらゆる人生のリハーサルを行い、来たるべき時に備えるため。苦しみを虚構の中に散らし、強がって笑い飛ばすために。
劇中各所に散りばめられた赤。その熱と輝きの余韻に上気したままの頭で、ぼんやりとそんなことを考えた。だから、今作は「コメディ」なのだと。
 時を置き、頭を冷やして後もう一度、芝居の生まれた理由とその真髄を花組芝居の手引きで確かめるべく、劇場を再訪したいと思っている。

                                              大堀久美子(編集者)

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